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連休に何もしないことを選ぶようになった。
以前は「せっかくの連休なのに」と思っていた。
でも今は、何もしない時間こそが贅沢だと思っている。
忙しかった3年間の反動
看護学校に通っていた3年間、休みはほぼ勉強に充てていた。連休があっても、テストの準備、実習の振り返り、国家試験の勉強。「何もしない」という選択肢がなかった。
看護師になってからも、最初のうちは仕事のことが頭から離れなかった。休みでも「あの処置、あれでよかったか」とぐるぐる考えていた。気持ちの意味での「休み」が、なかなか取れなかった。
何もしない連休の発見
ある連休、体が動かなくてただ横になっていた。最初は罪悪感があった。でも気づいたら、頭の中が静かになっていた。何かをしていないと落ち着かない、という感覚が薄れていた。
「何もしない」が、実はとても贅沢な時間だったと気づいた。忙しくしていると見えなかったことが、静かな時間に浮かんでくることもある。
今の私にとっての贅沢
高いものを食べることや、遠くに旅行することが贅沢だとは思わなくなった。ゆっくり起きて、好きなものを飲んで、何も考えずにいられる時間。それが今の贅沢だ。
忙しく動いてきたからこそ、何もしない時間の価値がわかる。連休は休むためにある。
連休、どんなふうに過ごしていますか?
「何もしない」という選択も、立派な過ごし方だと思います。
「連休に何もしない」の罪悪感
SNSを開くと、連休中の旅行写真や充実したおでかけの投稿が流れてくる。そういうのを見ると、「何もしていない自分はダメなのか」という気持ちが出てくる。特に子供がいると、「どこかに連れて行かなきゃ」というプレッシャーがある。でも体が動かない。お金も使いたくない。そのはざまで、ぼんやりと連休が終わる、ということを繰り返してきた。
体が一番正直だった
今年の連休は、体が「動けない」と言っていた。疲れが溜まりすぎていた。子供は「どこか行こう」と言ったけど、正直に「お母さん疲れてる」と伝えた。子供は「じゃあいいよ」と言ってくれた。家でごろごろして、子供の好きなものを食べて、夜早く寝た。それだけの連休だったけど、連休明けの体が全然違った。疲れが少し取れていた。
贅沢の形は、変わってもいい
20代の頃の贅沢と、40代の今の贅沢は違う。20代は旅行や外食が贅沢だった。今は、何もしないことが贅沢だ。静かな家で、好きな飲み物を飲んで、だらだらする。それが今の私には一番のご褒美になっている。贅沢の形が変わったことを、老けたとは思っていない。自分が何を必要としているかがわかってきた、ということだと思っている。
「休む」を罪悪感なくできるようになるまで
「何もしない」を罪悪感なくできるようになるまで、時間がかかった。看護学校の3年間、休むことが怖かった。勉強しない日は、不安だった。その癖が、卒業してからも続いていた。連休になっても、「何かしなきゃ」という気持ちが抜けなかった。
それが変わったのは、無理して体を壊しそうになった時期を経てからだ。疲れを無視し続けた結果、職場でぐったりして帰ってきた日があった。あのとき「このままじゃいけない」と思った。休むことは、サボりじゃない。次のための充電だ。そう考え方を変えた。
今は連休を「何もしない時間」と決めることができる。子供に「どこも行かないけどいい?」と聞いて、「いいよ」と言ってもらえたら、それでいい。罪悪感より、体を回復させることを優先する。それが今の私の、連休の正解だ。
「何もしない連休」を肯定できるようになってから、連休明けが少し楽になった。充電できた体で仕事に戻れる。疲れたまま戻るより、ずっといい。贅沢の形は変わってもいい。今の自分が何を必要としているかを知ること。それが、40代の賢い生き方だと思っている。
連休に予定を入れなくなったのは、看護師になってからだ。仕事のシフトがあるからという理由もあるけれど、何もしない時間が本当に必要だと体が覚えたのだと思う。家でぼんやりと過ごす連休は、傍から見れば地味かもしれない。でも私にとっては、次の仕事週に備えるための大切なリセット時間だ。贅沢の形は人それぞれでいい。今の私には、これが一番合っている。
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